彼岸・対岸

もう一つのブログとパラレルな世界についてのブログ

ヤマノシヌイは、山の木の上から、モノたちが木の下を通り過ぎていくのを、見ていた。

モノたちは、そんなヤマノシヌイに見られていることをつゆ知らず、下を向いて歩いていた。そんな一人一人のモノたちを、日がな一日眺めていたヤマノシヌイは、モノたちと一緒に歩いてみたいと思った。

男が、杖ついた中年の女に気づいてから、彼女が目の前にたどり着くその時まで、男は、その場所から一歩も前に進もうとはしなかった。男にはそれがなぜかわからない。女も、さもそれが当然であるかのように、男とほんの数歩の距離まで来ると、じっと男に目を据え、男の存在を十分に理解したようで、語りはじめた。

「ここは、良いところでしょう」と女。

「ええ」と男。

 

 

 

 

季節は夏から秋に変わった。ある夜、一人、田の中の道を歩む男の姿があった。

この地方の山間では稲を刈り取ったあと田に水が張られる。そのような田の一枚一枚に、今夜は殊に明るく、月影が映えていた。

月明かりと稲穂の匂いを含んだ微風は、ここまで夜道を急ぐ男の背中を心強く後押しした。それでも今夜はこの辺りのどこか安全に身を横たえることのできる場所で、明日の朝まで待とうと思った。立ち止まってあたりをぐるりと見渡したとき、心細い夜道を女が一人、彼の向かおうとしていた先から歩いてくるのが見えた。その女は歩きつつ杖をついていた。

このような夜分に女が一人で歩む姿に不審を覚えながらも、男は、彼女に今晩を越す宿を尋ねようと思った。女もまた、そのような男にあたかも自分から用事でもあるかのように、杖を突きつつ、まっすぐと向かってくるのであった。

 

河口がどれだけ広くても、川は、そのみなもとをたずねれば、深い山奥のせせらぎからはじまる。そのような場所にはきっと、地元の人しか参らないような、ひそやかな「お宮さん」がある。もう20年以上も前になるが、高校生だった私は、自転車で川をたどった先の、そんな場所で時間を過ごすことが好きだった。

下界に住む人々から忘れられたような空間は深い木立に覆われ、その奥まった場所に、奇妙な形をした岩がある。もしかしたら本殿の御神体とは別かもしれない。けれどもその、決して大きくはない、少しでこぼことしたところのある岩にも、注連縄が張られている。苔むしたカミサマとしてマツラれている。

そのようなカミサマについて、以前に、物語を描いたことがある。なぜだか久しぶりに、あの物語の続きを書いてみたいと思った。それは次のようであった。なお、場面は「四国」としているが、私がいたのは近畿地方のとある片田舎である。

 

***

 

   「ヤマノシヌイ」

月夜の晩、四国のある山奥の川のせせらぎで、女がひとり、清らかな水を浴びている。月の光の中で、生まれたままの女のからだは、ほの白く透き通っている。女は、ある満月の夜に亡くなったおばあさんが流した涙が、この川でいのちを宿したときに生まれた。生まれながらに、長い黒髪と、豊満な胸をもっていた。美しい女、しかし、どこか寂しげだった。

ヤマノシヌイが、女に語りかける。
「おうい、お前、なぜ一人でいる?」
「ずっと一人だったわ。今までも、今も。」
「おれが近くにいってもいいか?」
「あなたは、私を食べるつもりなんでしょう。私は、食べてもおいしくない、だから、それはだめよ。でも、もしあなたが私とお喋りをしたいというのなら、どうぞ喜んで。わたしも、ずっと誰かと話したいと思っていたの。」

ヤマノシヌイは、その毛むくじゃらの体を岩陰に隠して、近づけるだけ女に近づいた。そうして、手をのばせば、女の肩にかかった髪に触れられる距離で、女にしゃべりかけた。
「おれは、こんな明るい晩には、きっと川におりる。川の水を飲み、魚を喰う。そうすれば、おれは腹もいっぱいになり、眠くなる。おれは、きっと、この岩陰にこうして(と言いながら、女に見えない位置でヤマノシヌイは身を横たえた)寝る。風は、空の星や月について俺に教えてくれる。」
「星は、なぜ光ったり消えたりするの?」
「星は、誰かが生まれたときに光って、誰かが死んだときに消える。星は、生まれた時からずっと、俺たちを見ている。星は、俺たちをいつも見ている。」
「星のない夜だってあるわ。」
「星は、あるときにはおれの見えないところで光っている。でもそれは、ないんじゃないんだ。あるのに、見えないだけなんだ。」
「ねぇ、だからあなたはいつも楽しそうなのね。」
「おれは、いつも笑っている。何か楽しいことがあれば笑うし、何もなくても笑う。それは、星がおれを見ていてくれるからなんだ。」
「ねぇ、いつか、私もあなたもいなくなったら、誰がこの星の話をするんだろう。ねぇ、私は、今日おばあさんのところに帰るの。私と今話したことを、ずっと忘れないで。私がいなくなった後、あなたがいなくなった後にも、きっと、ここであなたと私が話したということを、忘れないで。ね。」
「お前、いなくなるのか?」

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静かな晩。
ヤマノシヌイは、初めて涙というものを知った。
それは、本当に静かな、静かな晩のことであった。